広がる空は、一面の青。


屋上の扉のすぐ横にある柵にもたれかかるようにして、
力なく、まるで女の子座りのようにその場にへたり込んだまま
ぴくりとも動かない不二の腕を掴み、引きずるようにして菊丸はその体を
フェンスの前まで連れて来た。
柔らかな栗色の髪が頬を覆い隠すように顔にかかっていて表情はうかがえないが、
時折コンクリートに零れ落ちる雫が、いまだ彼の涙が枯れていないことを示していた。

菊丸はその大きな瞳で一度澄み切った空と太陽を見上げ、小さくため息をついて
から、不二と目線が同じになるようにしゃがみこんで、そっとその背中をさするように
触れた。その瞬間、不二の体がビクリと大きく痙攣し、きつく身をこわばらせるのが
見て取れたので、菊丸は少し大げさに、不二に見えるように両手を頭の位置まで
上げ、困ったように笑いながらもう触れる気はないという無言の意思表示を見せた。

二人の間に流れるのは、初夏の空とは正反対の、重く圧し掛かるような空気。

耐え切れなくなって、先に口を開いたのは、菊丸だった。

「・・・ごめん、いきなりあんなことして。」

言葉と同時にほんの少しだけ不二の肩がぴくりと反応を見せたが、
それ以降何の返答も無い。
相変わらず膝をかかえてうつむいたままだ。

ちょうど胸の高さほどのフェンスに両肘をかけて、うろうろと視線をどちらとも無い
方向へと漂わせながら、ひときわ大きなため息とも深呼吸ともとれるような呼吸をして
菊丸は再び不二の方へと体を向き直した。

「ねぇ、どうしたら許してくれる?」

「・・・。」

「・・・じゃあさ、ここから飛び降りたら、許してくれる?」

その言葉に反応するようにほんの少し、微かに不二の髪が揺れた。

「じゃあ、ゲームしよう。今から俺はこのフェンスを飛び越える。
俺がそのまま飛び降りたら不二の勝ち。不二がそれを止めたら俺の勝ち。
ね、簡単でしょ?」

「・・・何いってんの、馬鹿じゃない。」

少し鼻にかかった、まだ涙の乾ききっていないような声で不二が答えた。

「やっと口きいた。じゃあ、ゲームスタートね。」

そう言って菊丸はフェンスに両手をかけ、軽々とそれを飛び越えて
ほんの20cmほどの幅しかないコンクリートの上に降り立った。
突然の菊丸の行動に、不二は怪訝そうな顔を見せて黙ってその様子を見ていた。
その目はすっかり赤く充血していたが、すでに涙は流れてはいなかった。

菊丸は片手だけフェンスにかけてじっと不二の方を見据え、ゆっくりとその手を離した。
フェンス越しに見るその姿の向こう側にはもう、彼を支えるものは何も無い。
自分のことでもないのに、その奥の景色を想像すると、あの何ともいえない
下半身が浮くような感覚が体を走った。

「1、2の3で飛ぶからね。」

真っ直ぐに自分を見つめる、真意の見えないその瞳に不二は
戸惑いを覚えながら微かに震える指先を両の手をしっかりと握り締めて
隠した。

本当に飛び降りるわけがないと思いながらもそれすら核心が持てず
菊丸の曇りの無い瞳が逆に不安を掻き立てる。

「いち」

妙に響き渡るその最初の一言が鼓動を早める。

「にの」

菊丸が静かに瞳を閉じるのを見て、不二は大きく瞳を開いた。

「さ・・・」

最後の一言がその唇から零れ落ちる瞬間、
菊丸の体はフェンスとは反対の方向へと傾き、
同時に、まるで二人の間を隔てるように強い風が吹き抜け、
その風に後押しされるように不二の体は跳ね上がり、
その細腕がフェンスの間をすり抜けて強く菊丸のシャツの肩口を掴んで引き寄せた。

ガシャン、と大きな音を立てて互いの体がフェンスにぶつかり、
そのままその場にしゃがみこむように倒れた。

「・・・っ馬鹿!!何やってんのさ、危ないじゃない!!!」

息を荒げながら、腹の底から搾り出すようにありったけの声で不二が
菊丸に向かって叫ぶ。
頬は興奮のためかわずかに紅潮していた。

しかし、菊丸はそんなことおかまいなしといったように満面の笑みを浮かべている。

「なにが面白いわけ?」

不愉快この上ないという感じで珍しく眉間に皺をよせて
不二が問いただすと

「ごめんごめん、でも不二は絶対止めると思ったから。」

指先だけフェンスにかかっていた不二の手を上からそっと握って
顔を近づけ、自信たっぷりと言わんばかりの顔で見つめる。

「・・・馬鹿じゃないの、ホントに。」

あきれ果てたようにため息混じりにそう言って少し俯き、菊丸の手を軽く振り払い
立ち上がってその場を去ろうと数歩歩くと

「不二、待って!!」

再び勢い良くフェンスを飛び越えて、菊丸が後ろからその腕を
掴んだ。

「ちょっと、何?離し・・・」

「怪我してる、腕。血が出てるよ。」

言われて腕を見れば、細い引っかき傷のような赤い線が
右腕の手の甲より数センチ上のあたりにあり、血が滲んでいた。
咄嗟に手を伸ばした時、フェンスに引っ掛けたのだろう。

「ごめん、俺のせいだね。」

「いいよ、別にこんなのたいした怪我じゃないし。もう離して。」

菊丸の意味のわからない行動に苛立ちを覚え、一刻も早くこの場を立ち去りたいと思っていた
不二は、また自分を掴むその腕を振り払おうとするが逆に引き寄せられて、菊丸がその傷口を
舌先でそっとなぞる。

「ちょっ・・・と!!英二、やめてったら!何やってんのさ!?」

「なにって、消毒。フェンスなんてバイキンいっぱいついてそうじゃん?」

まるで口付けるように、そして時折舌先を唇から覗かせて傷口を舐めるその
様子が何だか見てられなくて、不二が何とかそれをやめさせようと何度制止しても、
菊丸は一向に聞く耳を持たず結局血の痕なんて少しも残らないくらい綺麗に舐め取ってから
ようやく満足したように唇を離した。

「よし、綺麗になった。これぐらいなら傷痕も残らずに済みそうだし、
良かった良かった。」

そう言って、目じりに皺をたくさん作って太陽みたいに笑うから、
怒る気力さえいつの間にか奪われてしまう、全くずるい特技だと思う。

「・・・もういいでしょ?離してよ。」

いい加減気まずさを通り越して何だか脱力感さえ感じてしまい、
大きなため息を漏らしてその腕を取り払おうとすると、菊丸の指先にさらに力が篭る。
それにつられるように、不二の体も微かに強張った。

「待って。ゲームは俺の勝ちでしょ?だから話きーてよ。」

「・・・何がゲームだよ。もともと君が勝手に言い出したことでしょう?」

「でも、止めたじゃん。」

やけに自信満々のその顔が妙に腹立たしく思えて、衝動的にとはいえ、
止めた自分がほんの少しだけ悔やまれて不二は顔をしかめた。

「とっさに体が動いただけだよ、大体ホントに飛ぶなんて思ってなかったからね。」

「いや、不二が止めなきゃホントに飛んでたよ、俺。」

「・・・う」

「嘘じゃない。俺なりに反省はしてるから、突然あんなことして・・・」

突然の真剣な表情とその目、そしてその言葉から先ほどまで自分の身に
降りかかっていた出来事が急に脳裏に思い出されて、不二は顔の内側から火が出るような
感覚を覚えた。

「ちょ・・・っもう、いいから!離して!!」

すっかり自分でもわけがわからなくなり、無茶苦茶に腕を振り回してなんとか
菊丸の腕を振り払おうと暴れるまくる不二の体をどうにか押さえ込んで後ろから抱きしめるように
捕まえると、菊丸は不二の耳に息がかかるくらいの距離に唇を近づけて

「暴れないで。もう無理やりあんなことしないから。」

そう言ってしばらくの間何も言わずに不二の体を抱きしめていた。
複雑な気持ちのまま、不二は静かに高まりを見せる鼓動が体中に響き渡るのを
感じていた。

「ねぇ、まだ怒ってる?」

穏やかな風が頬を掠めた瞬間、菊丸が静かに問いかけた。

「・・・当たり前でしょ。」

言葉少なにそう答えて不二はまた押し黙る。

「ごめん、確かに俺不二のこと何にも考えてなかった。それは反省してる。
ホントにごめん。」

表情こそ見えなくとも、その声で菊丸の真剣さは十分に不二には伝わっていた。
抱きしめる腕にほんの少し力が篭るのを感じて彼の見えない、何か不安のようなもの
も伝わってきて、少しだけ、何かは分からないけれど心が苦しくなった。
それでも、不二は沈黙を守った。

「俺さ・・・おかしいのかもしれないけど・・・ずっと心のどっかで不二にああいうことしたいって
思ってたのかもしれない・・・抱きしめたい、触ってみたいって・・・気持ち悪いかな?」

遠慮がちに、途切れ途切れに発せられるその言葉を聞いた瞬間、不二は大きく目を見開いた。
それは、自分の中にずっとあった想いと重なったから。
手塚に対する自分の気持ちと同じだったから。

ずっと、心の中にしまいこんでいた言葉、誰にも言えなかった言葉。
それを今、他人の口から聞いたのだから。

「俺・・・おかしいのかな?」

風にかき消されてしまいそうなほどの小さな掠れた声で菊丸が問いかける。
痛いほどに理解できるその言葉の苦しさに、息が詰まる。

「そんなことない・・・」

「え?」

「そんなことないよ、おかしくなんかない。僕はそれをおかしいとは思わないよ。」


自然と口から零れる言葉。
だけど、それは素直な自分の想いだった。

だって、僕も同じ想いを抱えているから。
おかしいなんて思えない。
思えるはずが無い。


菊丸の方へ向き直り、互いの目が合う。
相変わらず不安そうな瞳で、それでも不二の言葉に
少しだけ安堵を覚えたように菊丸が笑う。
不二も出来る限りの笑みを浮かべてそれに答える。

「不二ってさ、好きな子いるの?」

「え・・・?」

少しだけ目線を下げて、菊丸が問いかけた。
一瞬、戸惑いを覚えて上ずったような声を上げ、不二は返答に困る。
正直に答えることなどできるわけが無い。

たとえ、菊丸が真っ直ぐな気持ちを自分にぶつけているのだとしても。

「ううん・・・いないよ。」

嘘をついているという後ろめたさを感じながら、
今度は不二が少しだけ目線を反らして答えた。

「じゃあさ、好きな奴ができるまでの間だけでもいいから、俺と付き合ってくれない?」

「・・・。」

突然の菊丸の言葉に、なんと返していいのかも分からず、そのまま不二は
体を硬直させて棒立ちになっていた。


好きな奴ができるまで


その時点でもう、話はおかしいのだから。
本当は自分は手塚が好きなのだから、

 


だけど・・・

 


「いや・・・かな?」

そう言って自分を見る菊丸の目があまりに真っ直ぐで、真剣で、
だけどすごく苦しそうで、何だか胸が押しつぶされそうな程に自分も
苦しくて、

「・・・ううん・・・いい、よ。」

 


気づけば口から了承の言葉が零れ落ちていた。

その瞬間、菊丸の顔は、いつもの太陽みたいな笑顔に戻って、
何か取り返しのつかないことをしたのではないかという不二の
思いをほんの少しかき消した。

 

 

 

 

 

 

 

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